2011-11-15

部誌提出用原稿下書き『空腹レイニイ』

「空腹レイニイ」


生まれた時から電池が足りないことは知っていた。
そんな気がしていた。わたしの見る世界はいつも雨が降っていて、輪郭がはっきりしない。歩き出せば重い雨に阻まれる。周りには人がたくさんいたけれど、黒く揺れる人影は触れられるのか分からなかった。だから触らなかった。消えそうな気がしたから。
雨が降っているのは電池が足りないからなのだ。わたしはそう思うことにしていた。わたしの体は電池で動く機械で、電池が切れかけているから上手く動かせないしちゃんと世界を見ることもできない。
右手を見つめるけれど、その右手が自分のものなのかが思い出せない。しかしはたして自分の体が自分のものかどうかは思い出すものだっただろうか。
わたしは雨の当たらないわずかな場所で独りうずくまっていた。長いことじっとしていた。でも電池が切れてしまいそうだからといって、ずっと動かないのも退屈で仕方がない。電池が切れるのが早まるかも知れないけれど、構わない。動いてみようか。わたしは立ち上がった。
足を動かしてみよう。左足を一歩。雨が絡まって歩きづらい。でも、一歩だ。わたしは歩き出したのだ。踏み出した左足を支えにして、右足も前に送る。体が足につられて前に出る。雨が頭を打つ。
電池を探してみるのもいいかもしれない。電池がどこにあるかなんて見当もつかないのだが、とにかく歩いて探すのだ。
雨が絡まって重い。歩幅がどんどん小さくなっていく。雨が当たらない場所に戻れなくなるかもしれない。振り返った。黒い人影が見えた。雨で輪郭がはっきりしない人間の形。
やあ、歩いている人を見るのは久しぶりだよ。と、その人影は言った。わたしは黙っていた。君も電池が足りないんだろ、僕のとつなげてみないか。少しは長持ちするようになるんじゃないかな。そういって人影は近づいてきた。輪郭がだんだんはっきりしてくる。わたしはその影から離れようとした。でも雨が絡まって動けない。右腕を触られた。たぶんわたしの右腕だとわたしが思っている右腕にそれは触れてきた。振りほどいた。輪郭のおぼろげな存在に触れると消えてしまう気がしていたからだ。わたしにとっては向こうの輪郭があいまいなのだが、向こうからみたらわたしの輪郭もおぼろげなのだろう。ならば、それがわたしに触れたりしたらわたしは消えてしまうかもしれない。右腕に左手で触れながら、走る、逃げ出す。雨はわたしを嫌うように千切れていく。
どれだけ走っただろうか、どれだけの人影とすれ違っただろうか。わたしは足が痛くなってきて、立ち止まった。膝に手をついて、息を整える。走っている間は気づかなかったのだが、心臓が痛いほどに収縮と膨張を勢い良く繰り返している。右腕もわたし自身も消えてなくなりなどしていなかった。わたしは少し安心した。そして、ゆっくり歩き始めた。
雨はもう重くなくなっていた。足に絡み付いて歩きにくくなることもない。変な感じだ。今まで当然のようにあり続けたものが変わってしまったのだから。人影も心なしか輪郭がはっきりしているように見える。それがいいことなのか、私にはわからない。はっきり見えたほうがいいのだろうか。それとも、このまま曖昧に世界を見ているほうがいいのか。
世界は様変わりしているように見えた。雨が隠していた何かが見え始めていた。それはわたしへの拒絶にも見えたし、あるいは受容かもしれない。まだわからない。もし拒絶されたら、それは恐怖だ。わたしが世界に拒絶されていたのだとしても、雨が降っていたほうが見えないだけましだった。
わたしは歩くのをやめた。
立ち止まって、しゃがみ込んだ。膝を抱えて体育座りになる。見えないのが普通だったのだから、見えなくてよかったのだ。

「それでいいの? あなたは」

顔を上げると、小さい人影がわたしを見下ろしているのが見えた。逆光になっていて暗く、黒い影にしか見えない。いつの間にか、雨が止んでいたようだ。

「それじゃ、死ぬだけだよ」

わたしは顔を上げるのをやめた。元通りに、うずくまる。

「見えるのが怖い? 見ようともしないからでしょ。電池が足りない? だったら、充電すればいいじゃない。雨が重いなら傘を差すか、レインコートでも着てきなさいよ」

雨が再び降ってきたようだ。何かが空から落ちてくる。

「まあ、あんたがそのままでいたいなら、わたしにどうこういう資格はないんだけど」

それは雨ではなかった。ふわふわした塊だった。白い綿のようなものが、空からゆっくりと落ちてきている。

「でもそのまま閉じこもってたら、あんた、今度こそ消えるよ」

綿が地面にふわりと落ちる。わたしを覆う影が動く。少女の手がわたしの腕をつかみ、立ち上がらせた。わたしはそれを振りほどこうとしてもがく。

「誰かに電池を取られて、ね」

少女はわたしの腕を握る手に一層の力を込めた。それに反比例するかのように、わたしの体から力が抜けていく。ただでさえ足りない電池が、どんどん減っていく。

「や、めて!」

わたしは残る力を振り絞って人影を突き飛ばした。少女が積もり始めた綿の上に倒れ、ガシャン、という音を立てる。少女の歯車が抜け落ちて、動かなくなった。やたら明るくてどこまでも綿が積もる真っ白な世界で、わたしは横たわる少女を見つめていた。電池がもう底をつく。足を前に出すことさえ出来るかどうか分からない。わたしは少女に覆いかぶさるようにして倒れた。彼女はもう動くことはない。なら、電池も不要なはずだ。わたしは彼女から電池を貰おうと思った。彼女だってわたしから奪おうとしたのだ。立場が逆なだけで行為は同じなのだから、許されないことではないだろう。わたしは彼女の腕をつかんで、

「誰があんたなんかに」

少女がまっすぐわたしを睨んで、言った。少女は体をずらし、わたしを蹴り飛ばした。わたしは少女の横に倒れた。電池が尽きる。何も見えなくなる。最後に見たものは、消えていく少女の瞳に映る、消えていくわたし──